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緊急報告 ハイチ大地震 国際緊急援助隊医療チーム 派遣報告

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● 緊急報告 ハイチ大地震 国際緊急援助隊医療チーム 派遣報告
京都大学医学部附属病院 初期診療・救急科 助教  山畑 佳篤

2010年1月12日(火)にハイチ共和国で発生した大地震に対して、日本から派遣された国際緊急援助隊医療チームのメンバーとして1月16日(土)から1月29日(金)までの2週間、 現地に行かせていただきました。現地に派遣されたのは1名ですが、派遣にあたって2週間の業務を他の医局メンバーで分担していただく、医局長や教授から派遣の許可をいただくなど、 初期診療・救急科全体で参加した活動だったと思います。以下に派遣の概要や現地での様子などを緊急報告いたします。

ハイチ共和国 概要
ハイチ共和国はカリブ海のイスパニョーラ島(コロンブスが最初に上陸した島)の西部にある国です。元々はフランスの植民地で、フランス革命直後に独立した世界で最初の黒人国家です。 その後に独裁政権の誕生など複雑な政治状況が生じたため発展が遅れ、現在では西半球の最貧国と言われています。人口は約900万人で面積は四国より少し大きい広さ、 首都ポルトープランスには西半球最大のスラム街があり、首都人口は約300万人です。治安面では国軍が解体されて治安状況は悪化し、 現在は国連ハイチ安定化ミッションとして諸外国からPKOが入っています。

災害状況 概要
2010年1月12日(火)現地時間午後4時53分(日本時間同日午前6時53分)に、首都から約20kmの地点で、活断層型で震源の浅い、マグニチュード7.0の直下型地震が発生しました。 被害状況は甚大で、1ヶ月後に判明している死者数は23万人以上、被災者は300万人以上です。過去200年大きな地震が発生していなかったため建築物が脆弱で、耐震基準などもなく、 民家は基本的にブロックを積み上げただけの構造のため、被害が甚大になりました。
現地政府や派遣されているPKO部隊も大きな被害を受けて発災直後は機能しない状態となり、日本大使館も被害を受けて、 発災後しばらくは日本人大使館員も路上の車で寝泊まりしている状態でした。 今回の日本チームの活動場所は首都から西に40kmのレオガン市(Leogane)という、人口10万人、死者3千人、負傷者1万人の街でした。 注目を集めた首都には外国からの医療チームが複数入っていましたが、首都以外にはまだ援助の手は行き届いておらず、どこの国のチームもまだ入っていないレオガン市での活動となりました。 実際に被災地に入ってみると、首都よりも震源地に近いため首都以上に被害が大きく、建物の9割は倒壊している状況でした。

国際緊急援助隊医療チームの概説
国際緊急援助隊医療チームは、日本政府によるミッションです。メンバーは派遣のための導入研修(2泊3日)を受講した上で、国際協力機構に事前登録されます。 導入研修受講の条件は所属の長が派遣について承諾していることで、緊急医療活動への意欲があれば誰でも登録できます。1回のミッションの派遣期間は出国から帰国まで2週間と決まっており、 医療ニーズがそれ以上続く時は第2陣、第3陣と引き継いでいきます。 実際の派遣には被災国政府からの要請が必要です。要請があれば、外務省、国際協力機構で緊急支援ニーズを鑑み、救助チーム、医療チーム、専門家チームなどの派遣、 緊急物資の提供などを検討します。医療チームは派遣決定から48時間以内に成田空港を出発することが要件になっています。実際に派遣が決定されると登録メンバーに一斉にメール配信され、 出発予定日から2週間の日程が確保できることが確定した時点で、自分から立候補します。締め切りまでに立候補した人から事務局で人選を行い、正式に派遣が決定されます。 現時点での標準的なメンバー構成は、団長1名(外務省)、副団長2名(内1名は医師)、医師4名(内1名は副団長兼任)、看護師7名、薬剤師・放射線技師・臨床検査技師各1名、 救急救命士2名など計25名で、医療資機材、テント、食料、水など、滞在中に必要なものは基本的にすべて現地に持って入ります。今回の派遣では追加メンバーも入り、計27名で活動してきました。 現在、機能拡充についての議論中で、今後はさらに規模は大きくなる可能性があります。

派遣経過
今回の派遣の経時的な経過です。

1月12日(火)午後4時53分(現地時間) 発災
1月15日(金)午後5時30分(日本時間) 派遣決定
(この間に勤務調整など)
1月15日(金)午後7時30分 立候補締め切り
1月15日(金)午後10時30分頃 派遣メンバー決定、連絡
1月16日(土)午後6時30分 成田空港集合・結団式
1月16日(土)午後9時 成田空港出発(チャーター便)
1月16日(土)午後8時30分(米国時間) マイアミ国際空港到着(宿泊)
1月17日(日)午前10時45分 米軍基地出発(自衛隊C-130)
1月17日(日)午後1時26分(現地時間) ポルトープランス到着
(荷物の積み降ろし、陸路移動)
 同日   午後5時 活動サイト(レオガン)到着
1月18日(月)午前7時45分 活動拠点設立開始
 同日   午前10時45分 診療開始
この後、連日診療
1月20日(水)午前6時 最大規模の余震発生(震度4-5)
1月23日(土)午前 自衛隊医療チーム第1陣到着
1月25日(月)午後 自衛隊に診療拠点を引き継ぎ
1月26日(火)午前6時20分 レオガン出発
 サントドミンゴ(ドミニカ共和国)経由(陸路)
 ニューヨーク 経由(民間便)
1月29日(金)午後4時55分 成田空港到着・解団式

現地での診療内容
今回の派遣で特徴的な点は3点あります。

1)診療が発災から6日目であったが、未治療の外傷が多かった。

2)安全管理上、活動サイト外に出ることができなかった。

3)他国のチームとの協力・協調関係が非常に上手くできた。

1)について、通常、発災後の緊急治療がスムーズに行われる環境であれば、医療ニーズは発災から3日目以降に外傷治療から内科系の問題にシフトしていきます。 今回は被害規模が大きく医療ニーズ自体が非常に大きかったこと、首都が被災して現地の行政機構も破綻してしまったこと、最貧国で元々の医療状況が不十分であったことなどから、 レオガン市では日本チームが活動を開始するまで医療支援を受けることができない状況でした。我々が診療を開始できたのは発災後6日目であったにも関わらず、 ふたを開けてみれば未治療の外傷が多く、非常に多くの処置を行う結果となりました。世界の注目が首都に集中し、 それ以上の被害があったと思われる地域への支援が遅れたという側面もあったかもしれません。最終的に国際緊急援助隊が診療した患者数は述べ534人で、約65%が外傷症例でした。 初日は特に処置を要する重傷症例が多く、骨髄感染をして切断を要するレベルの開放骨折が4例、切開洗浄を要する皮下感染が多数いました。処置に時間を要したため 、初日の診療人数は29名でした。翌日以降も連日、感染した開放骨折、不安定骨盤骨折、膝関節脱臼、頭蓋骨陥没骨折などの外傷が受診するとともに、 ガス壊疽による敗血症性ショック、けいれん重積発作、重症心不全なども受診しました。(重症心不全の症例は、残念ながら受診直後に心肺停止状態となり、救命できませんでした。)

2)について、活動サイト自体は米国からの援助で建てられた看護学校の敷地を使わせていただきました。看護学校の建物は耐震設計が施されており、 本震時はもちろん最大余震時にも損壊することなく、安心して滞在することが出来ました。敷地にはフェンスで囲いがあって警備員がいる上に、PKOのスリランカ軍に敷地内の警備、 カナダ(ケベック)軍に敷地外の警備をしていただき、安全確保は十分にできている状態でした。逆に安全管理上、派遣チームとして安全確保されている敷地外に出てはいけない、 という制約があり、巡回診療や搬送困難症例への往診などは行うことができませんでした。診療の後半は徐々に内科系疾患も増えて来ており、巡回診療が可能であれば、 さらに多くの治療対象の外傷診療ができたものと考えられます。診療上の安全管理として、HIV罹患率が5-10%程度、結核感染も多い地域であり、 スタンダードプリコーション等にも気を使う必要がありました。

3)について、日本チームに引き続き、多くの国際医療チームがレオガン市にも入って来ました。同じ敷地には米国からのNGO団体連合、 市内にはカナダの災害医療チーム、スイスからの国境なき医師団、それにキューバからの医療チームが活動をしていました。日本チームは他国が持っていない機能として、 デジタルX線撮影装置とポータブルエコーという画像診断装置を携行しており、日本チーム自身の診療に使用するのはもちろんのこと、 他国からの依頼を受けての画像検査も積極的に行い、非常に感謝されました。派遣期間中に日本チームの診療で撮影したX線は123枚、 他国からの依頼を受けて撮影したX線は133枚となりました。エコーに関しては妊婦の転倒打撲や妊婦の腹痛に対する需要が多く、 同様に診療に役立ちました。逆に日本チームは医師が4名で手術資機材も持参していないことから、四肢切断などの手術処置は他国(多くは隣りの米国NGO)に依頼をする、 とうい協力体制を組むことが出来ました。

その後
国際緊急援助隊医療チームが活動したサイトには、引き続き自衛隊からの緊急援助隊が入り、診療を引き継ぐことが出来ました。自衛隊チームは3週間診療を続けましたが、 期間後半には災害と関連のない受診が多数を占める状態となり、現在は撤収してその後の診療は日本赤十字社に引き継がれています。
今回の災害は一国の首都が直接被災する規模の大きなものであり、通常のミッションであれば首都の総合病院に転送するような症例も、 それらの病院が被災して転送ができないことから、可能な範囲での治療を自分達の能力内で行うしかない、という非常に厳しい活動でした。以上の様な大きな被害を受けたハイチ共和国、 元通りの生活に復興できるまでは10年はかかると言われており、今後も息の長い支援が必要です。

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